「斬れ」―――ひゅうひゅうと、か細い声がする。まだ幾分か涼しさの残るような夏の日だった。
「安定?」
はっとしてあたりを見回すと、いつも通りの本丸の景色が移った。なんだか、すごく長い夢を見ていた気がするが、大和守安定はそれを気取られぬよういつも通りの笑顔を作った。
「あるじ、何かあった?」
「ううん。ただ、安定がほうっとしてたみたいだから」
どうしたのと、瑞樹は至極やさしい表情で言う。どきりとして、冷や汗一筋、ばれぬように安定は顔の前で手を振った。どこで鳴いているのか蝉の声が1匹分だけ響いている。
「・・・今日はいい天気だね。」
光をを遮るようかかげられた右手が、瑞樹の顔に色濃く影を落とした。暑くなくて、空は青くて、最悪の陽気だ。
「そうだね」
それでも、目の前の彼女にそれをぶつけるのはお門違いな気がして、安貞はそう誤魔化した。
静かな縁側、先に広がる明るい庭、―――そして対照的に暗い部屋を、通り過ぎたのは黒猫だった。
「あ、猫だ。ほら、安定」
瑞樹が指さし、安貞もそれを視線に捉えた。
その時、はっきり安定の耳に「斬れ」と男の声。
それは一瞬だった。殺気すらも出さずに、黒猫の命は消えてなくなった。
「やった」
純粋な喜びの声は、瑞樹が今日聞いた中で一番安定らしい声色だったが、彼女は突然行われた抜刀に、失われた命に、かたかたと震えるしかできなかった。
「やっと斬れたよ、主」
晴れやかに安定が言う。
そのもの言いに、あるいは呼ばれたと感じたからなのか、瑞樹は正体を取り戻した。そして、残心したままの安定へ駆け寄ると、刀を持つ手に自らの手を添える。
「安定」
誰だ?この女は。安定の目にはもう瑞樹は主人とは写っていない。
「どうしてこんな事したの?」
涙目の瑞樹には目もくれず、主、主が望んだことだと、安定は辺りをキョロキョロと見回した。これで主も喜んでくれるんだ。
主、主、大事な主。いつも前を向いて、ひたむきに進んでいた、強い主の姿をさがす。
しかし、当然ながら前髪を落とした男の姿はどこにも無かった。
あるのは咎めるように安定を見る瑞樹だけ。
「安定」―――名を呼ぶ女の声。
「なまえ、さま―――あるじ」
そうこの人が主人であると、安定は刀を納めた。
「なんで、こんなこと」
「ごめんね。ぼうっとしてたんだ」
いつもの様な笑顔で謝って、猫だったそれを拾い上げる。主を悲しませちゃったと心中で反省をした。
瑞樹に背を向けごみ捨て場へと向かう安貞に、
「黒猫が斬れねぇよう」
、なおもひゅうひゅうと聴こえる声。
だからこういう日は嫌いなのだと安定は思った。
(2016/09/11)
雲の登る日
「安定?」
はっとしてあたりを見回すと、いつも通りの本丸の景色が移った。なんだか、すごく長い夢を見ていた気がするが、大和守安定はそれを気取られぬよういつも通りの笑顔を作った。
「あるじ、何かあった?」
「ううん。ただ、安定がほうっとしてたみたいだから」
どうしたのと、瑞樹は至極やさしい表情で言う。どきりとして、冷や汗一筋、ばれぬように安定は顔の前で手を振った。どこで鳴いているのか蝉の声が1匹分だけ響いている。
「・・・今日はいい天気だね。」
光をを遮るようかかげられた右手が、瑞樹の顔に色濃く影を落とした。暑くなくて、空は青くて、最悪の陽気だ。
「そうだね」
それでも、目の前の彼女にそれをぶつけるのはお門違いな気がして、安貞はそう誤魔化した。
静かな縁側、先に広がる明るい庭、―――そして対照的に暗い部屋を、通り過ぎたのは黒猫だった。
「あ、猫だ。ほら、安定」
瑞樹が指さし、安貞もそれを視線に捉えた。
その時、はっきり安定の耳に「斬れ」と男の声。
それは一瞬だった。殺気すらも出さずに、黒猫の命は消えてなくなった。
「やった」
純粋な喜びの声は、瑞樹が今日聞いた中で一番安定らしい声色だったが、彼女は突然行われた抜刀に、失われた命に、かたかたと震えるしかできなかった。
「やっと斬れたよ、主」
晴れやかに安定が言う。
そのもの言いに、あるいは呼ばれたと感じたからなのか、瑞樹は正体を取り戻した。そして、残心したままの安定へ駆け寄ると、刀を持つ手に自らの手を添える。
「安定」
誰だ?この女は。安定の目にはもう瑞樹は主人とは写っていない。
「どうしてこんな事したの?」
涙目の瑞樹には目もくれず、主、主が望んだことだと、安定は辺りをキョロキョロと見回した。これで主も喜んでくれるんだ。
主、主、大事な主。いつも前を向いて、ひたむきに進んでいた、強い主の姿をさがす。
しかし、当然ながら前髪を落とした男の姿はどこにも無かった。
あるのは咎めるように安定を見る瑞樹だけ。
「安定」―――名を呼ぶ女の声。
「なまえ、さま―――あるじ」
そうこの人が主人であると、安定は刀を納めた。
「なんで、こんなこと」
「ごめんね。ぼうっとしてたんだ」
いつもの様な笑顔で謝って、猫だったそれを拾い上げる。主を悲しませちゃったと心中で反省をした。
瑞樹に背を向けごみ捨て場へと向かう安貞に、
「黒猫が斬れねぇよう」
、なおもひゅうひゅうと聴こえる声。
だからこういう日は嫌いなのだと安定は思った。
(2016/09/11)